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東光寺

  浄土真宗本願寺派。
 父・義證、母・はつ(通称初枝)の長男として京都で生まれ、3歳の時に佐々木の東光寺に帰ってきた。東光寺は、山間の小さな寺、父・義證の病身と親戚の借金の請け判の責任をとって、生活は苦しかった。
 昔ながらの一つ棟の小さな本堂と庫裏を、東井は昭和49年に私財をなげうち、立派な伽藍として建て直すべく志を立てた。現在の東光寺地域の有志の方々や、地方の有縁の人々からの寄進を受けて、大きな石垣を積んで境内を広げ、隠居処、納骨堂などを含め、現在の東光寺を立派に復興させた。

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独来独去無一随者
(独り来たり、独り去る。一人も随う者無し)

 師範学校の夏休みの「漢文の宿題」で遭遇したことば。「漢文の本を読んで……」といわれても漢文の本を買う金もない。「お経も漢文だ」と合点して読み出した浄土真宗の聖典『佛説無量壽経下巻』に、上記の語句があって驚嘆した。「世界には何十億という人間が住んでいるのに、自分はひとりぼっちだ。これは大変なことだ」と気がついた。

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ペスタロッチー賞

 Johann Heinrich Pestalozzi(1746~1827)。
 神への信仰を背景とした家庭的関係、特に親子関係を最も理想的な関係とし、教育はこの自然の道に沿って行われなければならないとしたスイスの教育家。彼の81年の生涯は、貧民の救済と教育方法の探求にささげられた。72歳の時には最後の財産をなげうって貧しい子どもたちのために、貧民学校を建設した。彼の生き様は、「すべては他がためにし、おのがためには何事もなさず」という墓碑銘に表れている。

 このようなペスタロッチーの遺徳を偲び、教育理念を学ぶために、広島文理大学(後、広島大学)でペスタロッチー祭が行われてきた。昭和30年よりペスタロッチー賞が設けられて、全国の教育功労者の中から毎年1名を選んで贈呈されるようになった。
 東井は昭和34年、第5回目の受賞者となる。初等閉じる教育関係の現場教師の授賞は初めてのことであった。

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小砂丘忠義賞

 ササオカ・タダヨシ。高知県長岡郡本山町出身。師範学校卒業後教師となり、25歳で1回目の校長を1年間、2回目も8ヶ月で退職。上京して、生活綴方教育の運動を始める。昭和4年(1929)「綴方生活」を編集・発行し、8年間続いた。

 東井は昭和7年(1932)に姫路師範学校を卒業後、豊岡小学校教師となって、小砂丘氏・野村芳兵衛氏等に知られて、生活綴方教育運動に加わる。運動母体の「日本綴方の会」は、昭和26年に「日本作文の会」と改称された。

  小砂丘忠義賞は、日本作文の会が成果を挙げた実践者に贈る賞として、昭和27年(1952)に設定された。東井義雄は、昭和35年(1960)に48歳で受賞している。

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正力松太郎賞

 日本仏教教団60余派が、読売新聞社主の正力松太郎氏の提唱で昭和52年(1977)に設立した、全国青少年教化協議会が贈る賞で、対象は青少年の育成・社会の情操教育に努めた個人や団体である。

 東井は、長年にわたる教職に従事の傍ら「どの子も、必ず救われる」と説いて、全国を「講演行脚」し、百冊を越える書物を著した。その功績が顕著であるとして、昭和63(1988)に75歳で、この賞を受賞した。

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『学童の臣民感覚』(『僕らの二千六百年史』)

 『僕らの二千六百年史』は、昭和15(1940)年度、豊岡小学校6年3組の1年がかりの作文集。第1~4号、計130篇におよぶガリ版刷りの記録である。昭和16年1月から4月、文昭社『日本の子供』で紹介され、ついで昭和18年5月号の「文藝春秋」に『学童の臣民感覚』、10月号に『国史の礼拝』として掲載紹介され、昭和19年8月に日本放送出版協会から『学童の臣民感覚』と題し、単行本として刊行された。

 戦時下の教育姿勢の「ものを言ってはいけない」という教育のやり方が「ものを思わない子ども」「考えない子ども」をつくりはしないかと危惧し、綴り方をとおして、「与える教育から、子どもの側からものを言う、考え・思う学習の展開」を指向したものである。
 多くの読者に感銘を与えたが、戦後は戦争協力書と批判された。東井は弁解することなく、著作を断って、実践を積みつつ閉じる自らの教育理念を固めていった。

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『村を育てる学力』

 昭和32年、12年間の沈黙を破って明治図書から出版された教育実践記録である。小さな山奥の、つっぱり学校といわれ何時倒れてもおかしくないような相田小学校でハツラツとして営まれた、教育の報告であった。
 ほんものの学力とは、「子どもの感じ方、思い方、考え方、生き方、その論理の歯車にかみ合った力でなければならない。これを『生活の論理』といい、この上に教科の道筋はあくまで教師が主導権を持つという『教科の論理』を加えて東井義雄の学力観は成立している。

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『圡生が丘』

 昭和22年4月に母校の相田小学校に赴任。「わたしは、純粋に国を愛しているつもりであった。ほんとうに民族の血潮を大事にしているつもりだった。しかし、いつのまにか、ひとりひとりの生命を粗末にするような動きに協力してしまっていた」の『学童の臣民感覚』回顧の下、投稿や著作を断っていた東井義雄が、実践の記録の一つとして相田小学校で展開した学校通信である。

 児童・教師・保護者をみんな『生が丘』の舞台に乗せて、ほんものの教育実践を試み、生活綴り方教育の結実を図ろうとしたもの。ガリ版刷りで7年間、60号まで発行されたが、そのうち36号までは東井ひとりの編集であった。37号からは職員全員で作成された。
 「白もくれんの会」では、平成13年度、但東町から町制45周年記念として助成を受け、没後10年の事業として、60号のうち40号閉じるまでを復刻、上下2巻に分けて出版した。

 

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『培其根』

 八鹿小学校長としての8年間の教育実践記録。八鹿小学校の先生たちが、決して強制されたものでない学習記録・週録を校長に提出し、反省記録の欄で交わされた問答・指導助言がまとめられたもの。

 神戸大学森信三教授が、序文に「教師の授業実践に対して、一々懇切克明念に指導せられた貴重な記録。児童・教師・校長の三層にわたる教育的生命の相呼応する一大交響楽記録……」と絶賛している。

『培其根』は昭和53年に、森信三氏ゆかりの人たちでつくる「実践の家」から和綴じ6冊本で、平成10年・平成11年には寺田清一氏の「『培其根』刊行会」から洋綴じ本(6冊)の復刻版が、2回にわたって出されている。

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『通信簿の改造―教育正常化の実践的展開』

 人間の能力などという、きわめて複雑で底知れない深さをもったものに、点数などという定価表をつけることは、それ自身が人間性に対する冒だとし、成績の数字だけで人間性までも区別し、いい子悪い子に振り分けてしまう考え方を反省して、八鹿小学校で取り組まれた研究。

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