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  1944年
(昭和19年/31歳)

『僕らの二千六百年史』と『学童の臣民感覚』を集成し『学童の臣民感覚』として日本放送出版協会より刊行する。
「いのちの教育」に目覚めた東井の教育思想が、この著書の中に凝縮されており、後年発刊される『村を育てる学力』と共に東井の主著であるといえる。
しかし、戦時であったが故に、国家主義思想教育として、戦後、学者などの間で大いに議論を呼ぶところとなるが、東井は臆することなく当時を次のように語っている。

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『学童の臣民感覚』
 

   努力しても努力しても戦いになじめず、戦争祈願の
  神社参拝に参らされても、どうしてもかしわ手が
  うてなかった私が、遂にかしわ手をうつようになったのは、
  子どものいのちの中に、本然に民族のいのちの流れを
  感じるようになったからだ。おとなたちの戦争協力理論
  には 嘘も感じたが、理くつや思想以前の日常感覚の中に
  「臣民感覚」とでもいうべきものを感じては、どうしようも
  なくなってしまった、というのが私であった。
  こしらえものの思想は信じられなくても、
  いのちの直接表現である「感覚」の中に「臣民感覚」を
  見ては、信じないわけにはいかなくなってしまった。
  そして、そこから私の「本気」の戦争協力が始まった。
  だから、私は「もんくをいうな、だまって働け」という
  戦争指導には、さいごまで抵抗した。
  「もんくを言わせろ、しゃべらせろ、子どもこそ、
  正真正銘の日本のいのちなのだ」と叫んだ。

  雑誌「教育」99号より
   
  1945年
(昭和20年/32歳)
8月15日、敗戦を迎え、再び苦悩の日々が始まる。
  1946年
(昭和21年)
日本国憲法制定交付
  1947年
(昭和22年/34歳)kunou2_1
相田小学校

相田小学校(小学校時代の母校)に転勤する。その後、14年間勤務する。
その前半は、書くことがあれほど好きな東井であったが、戦争責任を感じ沈黙を守る、いわば苦悩の時代であったといえる。しかし、見方を変えれば、東井の教育生涯の中で最も地に足のついた教育を実践した時代であったともいえる。その証明が学校通信『圡生が丘』であり、やがて発刊される『村を育てる学力』である。

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自転車通勤をする東井

略歴 少年期〜青年期 いのちの教育に目覚める 苦悩の時代 花開く都東井教育 仏の声を聞く